月曜日, 8月 28, 2006

ダーウィンと進化論に関してのマンガ本

自然にマンガ道へ移り変わることができたのも、講談社サイエンティフィクの大塚さんがコンタクトしてくれた幸いなハプニングのお陰である。私の経歴はかなりアカデミックでマンガとは全く関係の無い分野だったため(ハーバード卒業後、物理学博士課程をMITで修了)マンガ道の旅立ちはかなりぎこちなくなることを覚悟していた。でも実際には思いがけないことにその科学関係の経歴が大塚さんの注目を寄せることになった。私のように経験の無い人を選んだことは表面上大きな賭けに見えるかもしれないが、私は大塚さんがリスクをとってくれたことに大変感謝している。

企画の内容を任された時、私はダーウィンの進化論の話を進めた。20年ほど前、化学者であるおじいちゃんに科学には4大名著があると教えてもらったことを思い出した。それはラボアジェの「化学原論」、ニュートンの「プリンキピア」、ダーウィンの「種の起源」と…えーっと、あとのひとつは忘れた。ま、とにかく生物学は大好きだし、進化論は面白いトピックだろうと思った。

そうやってプロジェクトが始まった。

絵を描く技術はある程度そろっていたが、初心者がいざ座ってみて実際にマンガを描こうとすると、いかに無知であるかということに気付き、色々なことに悩んでしまう。マンガのコマ割りはどうすればいいか?絵の内容でどう読者の読みとりかたを変えるか?絵柄はどうするか?様々なキャラクターの口調は?時代衣装やあれこれはどう描くか?どんなキャラクターデザインが適当か?などなど…考えることはいっぱいある。


また現実的な配慮もあった。マンガに親しい人は長く続いている連載などで気付いていると思うが、絵柄がマンガ家のくせや趣味の変化のため変わったりすることがある。例えば話が進むにつれ、キャラの背丈が短くなっていくのをたまに見かける。それはキャラをコマに納めやすくし、体全体で表現できるようにするのが一つの理由だろう(「Dr. Slump」や「おれは鉄平」など)。私の場合、220ページを描いていくにつれてマンガが上達するだろうと思ったので、本の真ん中から描き始めることにした。そうすれば、初ページからいきなり一番へたくそな絵で読者にショックをこうむらせないですむ。

そんな感じで、デビュー作は完成するまで4年ほどかかった。理由のひとつは親戚に手紙を送っていた子供の頃以来、日本語の文章を書いていなかったことだ。またこの本はダーウィンの伝記に歴史や現代科学の概念と知識が混ざっているため、色々とネタを集めないといけなく、その資料の海の中から何を使うか決めることなどにも時間が特別にかかった。

でも苦戦したお陰でマンガ家として必要な能力をかなり上達させることができたと思う。初めのころ、満足いくまでのキャラデザインは数週間もかかったが、最後のほうでは人の肖像を見ればその場でマンガ化することができるようになった。大塚さんに送った最初のページは完成までまるまる一週間必要としたが、本を終わらす頃には一時、6日で8ページも描いたことがある(それも本業持ちで)。

いつか自分の意志だけで絵を生み出せる日が来ることを願っている。でもまだまだ修行が足りないようだ…


後でこのマンガ本を具体的にどう作成し、地球の反対側にいる編集者とどうやって共に協力してきたかを話します。

木曜日, 8月 24, 2006

何故マンガなのか?

うむ、よくぞ聞いてくれた。なんでマンガに興味を持ったのかが知りたいところだろう。

私は東京で生まれたのだが、父がMIT(マサチューセッツ工科大学)で職を得た時に家族はボストンに引越し、それ以来ずーっとそこに住んでいる。まだ赤ん坊だったので故郷のことは何も覚えていなかったが、家では日本語を話していたので、初めの言葉「ヒコーキ」は日本語だった。


マンガとの初めての出会いはまだ三歳の時、ニューヨーク市を旅行中の時だった。ニューヨーク市には常に日本人が多く、いつも数軒は本屋さんがあり、そこであの不滅のクラシック「どらえもん」や「日本昔話」をみつけて夢中になった。今では日本の本はオンラインで買えるが、昔は大都市で(パリ、デュッセルドルフ、そしてもちろん東京)日本の本屋さんに行くことが旅行のハイライトだった。そういう思い出から本屋さんを宝探し、マンガを宝という風にいつまでも連想するようになった。

日本語での読み書きと会話ができるのも、マンガと両親や祖父母がこれらの本を与えてくれたお陰である。

つまり、私はマンガに囲まれて育ったわけで、マンガの読みやすさやエンタメとしての価値を賞賛している。お気に入りのマンガには「サイボーグ009」、「ブラックジャック」、「おれは鉄平」、「北斗の拳」などがあり、中国のクラシック「三国志」や「水滸伝」にも強く影響されている。


日本にいる皆さんにとっては当たり前の知識だと思うが、出版物の3分の1をマンガが占めている日本ではマンガは完全に確立されたメディアである。マンガが浸透していないジャンルはないため、男女問わず、全ての年代の人がマンガを読む。エロマンガは相変わらず人気があるみたいだし(やっぱりマンガ界でもそうですよ)、典型的なスポーツ、アクションやラブコメマンガもあれば、お寿司に関してのマンガもある。これはアメリカンコミックスの状況とは随分違う。ここ数年スーパーヒーロー映画がハリウッドで大ヒットしているが(「バットマン ビギンズ」と「スパイダーマン 2」は最高だった!)、コミックス自体は比較的マイナーな存在になってしまっている。

というわけで、私は業界が大きく、個人のビジネスとしてマンガを描くためのビジネスモデルがすでに確立されている日本でマンガ道を始めることにした。ビジネス面をそれほど気にせずに自分のマンガに集中できるからである。

子供のころ、私は父に「自分にしか出来ないことをやれ」と言われた。自分の道を切り開こうとしている今、その言葉に忠実に進もうと心がけている。私が思うに、人間はそれぞれ生まれつきのモノや得る経験はユニークではあるが、実際に自分にしか出来ないことをやれるかどうかは自分のユニークさをいかに使うかで決まる。

日曜日, 8月 20, 2006

惨事と天からの思いがけない贈り物


大学院の卒業式を控えた2週間前、父が心臓発作で54という若い年で亡くなった。

世間の災いから保護された安全な環境で育った私は、人生上初めての大きなショックを経験した。父は物理学者だった(私がその道を歩んだ理由のひとつである)。父はよく私が幼い頃から一緒に工作や実験をしてくれたし、自分のアイデアに情熱を込めて追求する人だったから、私が歩む道を変えて自分にとって一番意味があることを目指す必要を理解してくれていた。

大学院を卒業するまでは苦しい時もあり(その道を歩まないと決めた後はなおさら大変だった)、終わった後は人生バラ色になるだろうと思っていたが、惨事の後、実際にはもっと辛かった。我々の与えられた人生は限りあるため、その時間を最大限に使うことの重要性を今一度思い知らされた。

そんな時、ちょっとした奇跡が起こった。講談社サイエンティフィク編集部の大塚さんから科学書籍のイラストを描かないかという電子メールが届いた。父は高名な学者だったために朝日新聞のお悔やみの記事で取り上げられ、そこに私のことが書かれていたのがきっかけになった。以前にお悔やみの記事を書かれた記者が私のキャリアの変わり方を不思議に思ったことから私をインタビューし、お悔やみの記事に入れたのだった。実際それがコネクションを生み出すことになるとはだれが予知しただろうか?

とにかく初めは10数枚のイラストを新しい科学シリーズのために描かないかということだった。私はポートフォリオを始めるのにも絶好のチャンスなので「喜んでやらせていただきます」と答えた。大塚さんは、それでは参考にマンガのサンプルはないかと聞く。

「うわ、どうしよう…」と思った。

こまったこまった。ここ7年間、研究室にこもったまま長い間マンガは描いていなかったし。慌てて何枚か進化論に関したマンガにありそうなページを描いて、電子メールで送った。

「それではイラストはともかく、オールマンガで220ページの本を作りましょう」ということになり、本のテーマと内容もこちらに任せると来た。

私はその場でひっくり返った。マンガで17頁のショートストーリーを描いたこともないのに。数個のコマが続いたマンガを描いたのは恐らく10年前、大学の頃だっただろうか?それでもこんな絶好の機会を逃すもんかと

「よっしゃ!やりましょう!」と自身満ちたように演じた。(大塚さん、バレバレでした?)

実にこれは「先に答えて後で心配する」といった状況だった。こうやって最初の大きなプロジェクトが始まった。

水曜日, 8月 16, 2006

マンガ道からのお便り

私は5歳の時からマンガ家になりたかった。典型的かも?

でも話はそう簡単にはすまなかった。

それは同じ年頃から科学者にもなりたかったからだ。自然や数学、コンピューターで遊んだり、モノを設計して作ったりすることなどが大好きだったこともあり、物理学を勉強することにした。

「あれっ?」と思う間に大学院生。しかし20代半ば、博士課程の途中で自分にとって大変大事なことに気付いた。「ええっ?そんな大事なことに気付くのになんでそんなに時間かかったんだ?」と聞きたい所だろうが、ここで生物学的に考えてほしいことがある。それは複雑な生物ほど一人前になるのに時間がかかることだ。つまり、アメーバが2つに分かれるまで成長するのに2日かかり、蚊が2週間でチンパンジーが12年なら、自分はそれほど悪くないように見えてくる。


とにかく気が付いたのは、自分がいくら科学が好きでも研究室に閉じこもっていることに不満を抱いていることだった。「生きること」に関しての答えはそこで見つかることは叶わず、自分が必要としているデータポイントはいわゆる意味で「もっと大きな世界」から集めないといけないことが明らかになった。

また科学研究には確かにクリエイティブな要素もあるが、自分の芸術的な能力を使うことがあまりできていなかった。逆に絵を描いたりプラモ(これに関しては後でまた話す)を作ったりするのはアーティスティックではあるけれど、それだけの人生では学術的な刺激が欠けているように思えた。自分の能力や興味をフルに生かしながらできる、意義があって人の印象に残ることをしたい。色々と心の中を探った結果、マンガ家になることにした。自分の哲学を追求しながらビジュアルな「話」という形で他の人に表現することがができるからだ。

それ以後、私は教室でお絵描きをしたり空想にふけているステレオタイプの人になった。まあ、正直言えば昔からそうだったのかもしれないがこれで公式ということにしましょう。とにかくいずれは大学院を卒業し、近くのソフトウェア会社MathWorksで本業を持ちながら夜中にマンガのプロジェクトに励むことになった。マンガに専念する状態として能率が良いとは言いがたいが、フルタイムのマンガ家として収入が入るまではしかたがない。それまでは、「どんなスーパーヒーローにも本業が必要」と自分に言い聞かせている。

そんな始まりでした。初めはマンガ道を歩み始てからどうなったかを語り、その後からは現在の出来事をリアルタイムで報告します。

ちなみに英語に興味があったりそちらの方が読みやすい方のためにこのブログの英語版をここで同時に更新します。

これからの応援、どうぞよろしくお願いいたします。